イチロー「逆襲は続く」

  イチローヤンキースに移籍すると聞いた時、これは彼の野球人生において、かつてない類の決断だと感じたファンは、少なくなかったと思う。オリックスにしてもマリナーズにしても、彼が所属してきた球団は、一言で言えば新興球団だった。伝統や格式に縛られない環境の下、孤高の大スターとして、彼は比較的、自由に振る舞ってきたはずだ。
  だが、ヤンキースに行くとなると、そうはいかない。殿堂入りが確実な大スターたちに交じって、自分をアピールしなければならない。一切、特別扱いはされない。38歳になって、ア・リーグMVPもオールスターMVPも獲った選手が、そのような環境に飛び込むことは、大きな決断であったに違いない。
  それでもイチローは、ヤンキースに行った。マリナーズでは得られないものが、ヤンキースにはあったからだ。それは球界一の資金力に裏打ちされた「常勝」という文化だ。勝って当たり前の文化からしか得られない。緊張感の中でプレーすること。それがヤンキース移籍の意味だったはずだ。その結果が、どう出たのか。ここで、詳しく検証してみたい。

  イチローの今年の成績は次のようなものだった。
  打率.283(178安打)、9本塁打、55打点、出塁率.307、長打率.390。
  年間の安打数は、米大リーグ移籍後の12年間で最も少なかった。これはヤンキースに移籍した後、先発を外れて代打や代走の試合もあったからだ。だが、これを少し別の視点から見てみると、彼の現状が見えてくると思う。
  「.283」は、今年の米大リーグ全体で見ると53番目の打率だった。その中から、35歳以上のベテランをピックアップしていくと、イチローより上にいるのは「.316」のデレク・ジーター(ヤンキース=38歳)、「.313」のトーリ・ハンター(エンゼルス=37歳)、「.306」のマルコ・スクータロ(ジャイアンツ=37歳)、「.298」のポール・コネルコ(ホワイトソックス=36歳)。この4人しかいない。35歳以上なら、イチローの打率は米大リーグ全体で5番目であり、しかもその5人の中で、イチローは最年長なのである。
  日米通算でプロ21年。彼の動きを見ていると、我々はつい忘れてしまうのだが、今年の10月22日で39歳になったイチローは、既に、レギュラーでいるだけで珍しい年齢層のベテランなのだ。

  現在の米大リーグで、イチローと同じ年('73年生まれ)か、年上の選手を探してみると、投手には主力で活躍する選手が何人かいる。アンディ・ペティット(ヤンキース=40歳)、バートロ・コロン(アスレチックス=39歳)、デリック・ロー(ヤンキース=39歳)といった選手たちだ。だが野手で主力となると、これはほとんどいない。100試合以上出ている選手で見ていくと、チームメートでもあるラウル・イバネス(ヤンキース=40歳)と、今年限りで現役を引退したチッパー・ジョーンズ(ブレーブス=40歳)の2人だけだ。イバネスは130試合で打率.240、19本塁打、62打点。ジョーンズは112試合で打率.287、14本塁打、62打点だった。2人の全盛期からすれば目立った成績ではないが、この年齢層としてはまずまずである。この2人の出場試合数が130試合と112試合だったことを考えると、イチローが今年162試合に出ていること自体が、驚くべき事実なのだと理解できる。
  イチローと同じ'73年生まれの選手には、トッド・ヘルトン(ロッキーズ=39歳)がいる。首位打者1回、打率3割以上が12回。米大リーグでの通算打率は「.320」で、イチロー(通算打率.322)とほぼ同じだ。しかし今年のヘルトンは、故障もあって69試合しか出ていない。成績も打率.238、出塁率.343だった。やはりこの年齢で、野手のレギュラーでいることは、米大リーグでは本当に例外的なことなのだ。

  昨年打率.272で年間200安打の記録が途切れ、今年も7月23日に移籍するまで、マリナーズにおけるイチローの打率は「.261」だった。年齢的な限界説も出た。しかし限界でなかったことは、ヤンキース移籍後のプレーによって証明された。67試合で打率.322、出塁率.340、長打率.454。この成績の内容を詳しく見ていくと、彼はまだ、来年に向けて期待していい選手であることがわかってくる。
  例えば、年齢的、体力的に限界のきたベテランであれば、開幕直後の時期は良くても、暑さと連戦で消耗する夏場以降は成績が下がる傾向にあるはずだが、イチローは逆だった。月別の打率を見ると、9月が「.385」で最も高かった。9月は、オリオールズと地区優勝を争った緊張感の高い時期だったが、その中で、ずば抜けて良い結果を出したということは、イチローに必要だったのは、やはりペナントを賭けた緊張感であったのだと分かる。
  ヤンキースに移籍して以降は、打率も8番や2番など、マリナーズ時代とは違った。適応できなかった打順というのは特になかったが、興味深いのは、代打で出場した時の結果が、良くなかったことだ。代打としては6打数0安打、四球もなしだった。イチローが適応できなかったのは、打順ではなく代打だったのである。やはり、'94年にオリックスでレギュラーの座を獲得して以来、18年間ずっと先発だっただけに、代打への適応はハードルが高いのだろう。
  ヤンキース移籍以降、代打での成績を除外すると、打率は「.330」となる。ヤンキースイチローと再契約すれば、こうしたデータに基づいて、今後、代打起用はあまりされないのではないだろうか。やはり先発で出た時に、彼は結果を残している。
  先発で使える裏付けは、他にもある。右投手との対戦成績は今年「.283」で、左投手とも「.284」だった。相手投手が右か左かに関係なく、同様の結果を出しているのである。今後も試合によって打順や守備位置は変わるだろうが、基本的に先発出場した方が、チームに貢献できる選手であることは、ヤンキースでの3ヶ月間で証明したと言える。
  現時点で再契約はまだ発表されていないが、可能性は極めて高いだろう。移籍後に成績が上がっただけでなく、再契約に有利なデータはいろいろある。例えば、今年はヤンキースタジアムで37試合プレーしているが(3試合はマリナーズ在籍中)、通算で打率.338、出塁率.363、わずか9三振に11盗塁で失敗ゼロだった。一方、マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドでの成績は、47試合(ヤンキース移籍後の3試合を含む)で打率.216、出塁率.259、23三振、6盗塁で失敗1という、考えられない低迷ぶりだった。モチベーションの違いが、どれほど成績に影響するか。この結果を見れば、明らかだ。そして10月のプレーオフ、他の打者が振るわなかったリーグ優勝決定シリーズで17打数6安打(.353)と活躍したことも、ヤンキースの求める働きだったと言えるだろう。

  来年、イチローは通算成績において大きな節目を迎える。日米通算4000安打だ。現在3884本だから、あと116本。順当なら夏には達成される。
  通算4000安打はタイ・カップピート・ローズしかいない。イチローが米大リーグに行く前、日米通算の記録が米国のメディアに取り上げられることなどなかった。通算4000安打は、日米の野球ファンから共に注目される、空前の記念碑になるはずだ。

(2012.11.23 小川勝)